みんな大量のテキストを書く。ビジネス文書、メール、SNS。主述がまともで助詞・助動詞がきちんと使えているだけでだいぶ印象が良い。これほどまでにたくさんの人が日常的に文章を書く時代はかつてなかった。書き言葉というのはそんなに簡単なものではない。みんな平気な顔して書いているけれど、そこには必ず差異が生じる。事務的なメールのひとつふたつで、書き手が受けてきた教育や読んできたものがあからさまに見えてしまう。資産額を額に書いてあるようなわかりやすさである。自分の文化圏を示すために有益である反面、取り繕うこともできない。着替えるように語彙を変える人間はきわめて少ない。
生きて働いているだけでたくさんのテキストを見る。そこにあらわれた言語表現能力は一朝一夕に更新されることがない。もちろん、棲み分けもされている。クラシックな形式を好む者もあれば、あえて下品とされてきた言い回しを使って異なる世代や文化を排除する者もある。それはそれでいいのだ。問題は私が特定の言葉遣いだけを好むことである。
私は私のように話す人とばかり話したがり、私が「気持ち悪い言葉遣いだ」と感じた相手を内心で簡単に排除してしまう。私の周辺の多様性をそこなっているのは私の言語に対する感覚だと思う。私は何を言っているか以前にどのような言葉を遣っているかで人を判断してしまう。それは良くないことだという意識がある。人柄だとか、ほかの能力だとかを、ちゃんと見なくてはいけないと思う。いい人なのだろうから、有能なのだろうから、私にはわからないけどきっと魅力的なのだろうから。





